「12月29日開催! コロナ禍でも心を安寧にする──実践!マインドフルネス・オンラインセミナー」の開催を前に、講師の熊野宏昭氏のサンガジャパン掲載記事をWeb公開します。マインドフルネスやACT(アクト)に代表される第三世代の認知行動療法の第一人者の熊野宏昭氏は、研究者として、また心療内科医として活躍されています。現在人口に膾炙するマインドフルネスのけん引役として、NHKスペシャルをはじめとしてメディアにも多数出演されています。マインドフルネスのポイントが凝縮し整理された本記事は、マインドフルネスの実践をわかりやすく解脱した著書『実践!マインドフルネス』(サンガ、2016年)の刊行を記念して、2016年9月6日に開催された講演会の採録です。(第1回はコチラ)
構成=中田亜希
5 マインドフルネス/マインドレスネス
先ほどからお話している「心ここにあらず」とは、思考や感情に巻き込まれた状態です。不安を感じると不安に巻き込まれてしまう、怒りが湧きあがってくると怒りに巻き込まれてしまう、何かがほしくてたまらないと欲に巻き込まれてしまう、考え事をしていると考え事に巻き込まれてしまう……。
巻き込まれるというのは、思考や感情の黒雲の中に自分が巻き込まれているような状態です。周りじゅう黒雲なので、何がなんだかわからない状態になるわけです。それをマインドレスな状態といいます。
ACTでは、思考や感情に巻き込まれた「心ここにあらず」になっている心の状態と、そこから目が覚めたマインドフルな状態を、いくつかの特徴のある行動が合わさって表れている状態であると、モデル化して捉えています。
次の図【図1】の左側の4つ「過去と未来の優位」「体験の回避」「認知的フュージョン」「概念化された自己」がマインドフルネスの逆の状態であるマインドレスネスに関係していると捉えられている行動パターンです。つまり、マインドレスな状態はこの4つの行動パターンが増えている状態です。さらに「価値の不明確さ」「行為の欠如や衝動性」といった、右の2つを合わせた6つの行動パターンが増えると、鬱や不安などが強くなりやすくなります。 それに対してその反対の働きを持っている図【図2】の6つの行動パターンが高まると、健康で柔軟なものごとの捉え方ができる心・行動の状態であると言うことができます。
【図1】
【図2】
回避と認知的フュージョン
「心ここにあらず」の特徴の1つは体験の回避です。体験の回避とは、自分が感じたり、考えたり、思い出している嫌なことを感じないでおこうとする心の特徴、あるいはそういう行動パターンです。不安になりたくない、怖い思いをしたくない、痛みなんか感じたくない。このように嫌なものを心から締め出そうとすることは、誰にでもある特徴です。
でもこれは生まれたときにはない特徴なんですね。我々はこれを育ってくる過程で身につけてきました。なぜ身につけたのかというと、我々は心を閉じることによって、たとえ短時間であっても嫌な思い、怖い思いをしなくて済む経験を積み重ねてきたからです。
我々の行動は、いろんな形で学習されていきますが、その大部分は体験学習です。体験学習は無自覚に起こります。「怖くない、怖くない」と言って少しでもほっとできたので、我々はそれを癖にしてしまったんですね。しかし長期的には逆になります。しばらく経つと3倍返し、4倍返しで怖くなってしまうのですが、それは我々の習慣の学習には影響しません。
「認知的フュージョン」とは、自分が考えたり感じたりしていることに飲み込まれてしまうことです。「認知的」は思考、「フュージョン」は混同という意味です。つまり思考の混同です。何を混同しているのかというと、思考の内容と、現実と、自分の3つを混同しているんですね。
言葉の力
なぜ混同が起こるのかというと、我々の言葉が非常にうまくできていて、素晴らしい力を持っているからです。
我々の言葉はバーチャルな現実を創り出す力を持っています。たとえば目を閉じて「レモン」という言葉を聞くとレモンが見えませんか?「どこにある?」と聞かれてもどこにもないのですが、心の目でレモンが見えます。バーチャルな現実が我々の心の中に創り出されるんですね。
こんな例もあります。たとえば我々が小説を読むとき、数分あればその小説の世界に入って、主人公と一緒にドキドキしたり、楽しい思いをしたり、悲しい思いをしたりすることができます。でもその小説をパタッと閉じると、もうその世界はどこにもありません。それは非常に不思議なことですが人間の言葉はそういう力を持っているんですね。「レモン」と聞いたとき、レモンが心の目で見えても、レモンがここにないのはわかります。本の世界が本の中のことであることもわかります。ところが我々が考えていることというのは、そこがよくわからなくなってしまいます。
たとえば、鬱がひどい人が「俺ってだめだなあ」と思ったとします。そうするとダメな俺が見えます。「何をやっても失敗ばっかりだしなあ」と思うと、失敗してうなだれている自分が見えます。「それってあなたが考えているだけでしょ」と言われても、「いやいや、そんなことない。本当です」というふうに言いたくなるんですね。
レモンだったらここにないということがわかるのに、自分が考えていることが現実ではないということは、なかなかわからない。それぐらいバーチャルな現実はリアリティーがあるということなのです。
概念化された自己
認知的フュージョンの特徴の1つは概念化された自己、つまり自分に対する思い込みです。我々は常に自己イメージ・自己概念を持っています。自分はこういう人間だ、こういうことが得意でこういうことが苦手だ、これはできない、こういう人とは付き合えない、といった自己イメージがあります。が、それは本当は思っているだけなんですね。
我々は子どものころから「アイデンティティーを確立するのはいいことだ」と教えられています。アイデンティティーを確立すると、社会の中での立ち位置ができますし、中高生でいえば、自分のキャラと合った友達とだけ遊んでいればいいわけですから、いいこともあって楽なのですが、しかし「そんなの私のキャラじゃないのよね」と言ったとたんに他の友達とは付き合えなくなる、ということも起こるわけです。世界が狭くなってしまうんですね。自己概念は自分を縛るものにもなるということです。
過去と未来と自己注目
我々は「今ここ」にしかいません。過去なんてどこにもないし、未来もどこにもありません。しかし我々は過去のことにはずっとこだわり続ける。未来のことも心配して取り越し苦労する。バーチャルな現実を創り出す力によって、我々はあたかも過去や未来があるように感じてしまうわけです。
これは時間概念と現実を混同する行動です。過去は反芻、未来は心配ですから、過去や未来ばかりが大きくなって今がお留守になってしまうと鬱や不安につながっていきます。そうすると自分というものがどんどん大きくなります。自己注目が起こってくるんですね。自己注目も不安や鬱の大きな原因だということがわかっています。皆さんも、心配事や嫌なことがあると、自分のことばかり考えてしまいませんか?
この前、あるケース検討会で聞いたのは、子どものころから人前ですごく緊張するという方の事例でした。会社員になった今も緊張するので、緊張をなんとかしたいと思って治療者のところにやってきたんですね。「会社でうまくいかないことがあるの?」と治療者が聞くと、「いや、特にそれはありません」と言います。「会社では緊張しているとみんなに言われるの?」「言われません。むしろ今日のプレゼン良かったね、とかって言われます。でも家に帰ると、いやあ、なんで私、あんなに緊張したのかなあ。みんなは緊張してる私のことを見てどう思ったかなあ、そういうことをぐるぐる考えるんです。そしたらどんどんまた緊張してきちゃって、もう嫌で嫌でたまらないんです」「じゃあ実際、たとえばいちばん最近、プレゼンしたときはどんな様子だったの?」「いやあ、ぜんぜん覚えていません」。
この人は、どういう状態なのでしょう。うまくできて褒められても、自分のことばかり考えて家に帰るとそのことが逆になるんですよ。実際不都合はなかったのに。しかもプレゼンの様子は「覚えてない」と。自分のことしか見てないので、覚えてないんですね。
自己注目が起こってしまうと不安や鬱はいくらでも強くなります。思考から派生したバーチャルな現実はリアルな現実と対応してないので、いくらでも極端に考えられるんですね。それが危ないところです。
6 アクセプタンスでマインドフルネスを実現する
我々は常に回避か認知的フュージョンのどちらかにいっちゃっているわけです。心を閉じるか飲み込まれるか。それがマインドレスの特徴です。
「心ここにあらず」になるのはなぜか。1つは考える世界に飲み込まれるからです。もう1つは考える世界に飲み込まれて辛くなるので回避のほうにいくからです。でも回避はうまくいかなくて、倍返し、3倍返しになって戻ってくる。だから思考の世界に飲み込まれて「心ここにあらず」になってうろうろしてしまうんですね。
ACTでは「回避」と「認知的フュージョン」の逆をやっていきます。マインドフルネスというと、「心ここにあらずの逆だ、目が覚めた状態だ、練習するのは瞑想法を通して練習するのが一般的だ。じゃあやってみよう。やってみたけどうまくできない。まあ、もういいか」となってしまうことがあります。しかしACTはマインドフルネスの構成要素を分割しているので、1つひとつの練習がやりやすくなっています。それも患者さんと一緒に取り組んでいくときのメリットになっています。1つひとつを鍛えていく、結果的にその総体としてマインドフルネスが実現しやすくなります。
まずは「回避」の逆です。つまり「自動的に閉じてしまう心の扉を開けておく」ことです。これをアクセプタンスといいます。
アクセプタンスとは「今、不安になってるなあ」というのを感じながら、それをそのままにしておく状態です。そのままにしておくとはどういうことかというと、近づきもしないし、遠ざかりもしないということです。
我々は「不安になりたくない」と思うと不安から遠ざかろうしますし、「もっとほしいなあ」などと思うと近づきたくなります。それはアクセプタンスではないんですね。アクセプタンスというのは今体験していることに気づいてそのままにしておく、そういう行動のことを言います。これがとっても難しいんですね。「体験の回避」は自動的に起こってしまうからです。
皆さんは苦手な人と話をしなくちゃいけないとか、苦手な人と会わなくちゃいけないようなとき、一歩その人がいるところへ向かっただけで、目にもとまらぬ速さで心がピシッと閉じることがありませんか。私にも経験があります。これは本にも書いたことですが、診療中に必ず荒れる、苦手な患者さんがいたんですね。とにかく診療を早く終わらせておとなしく帰ってもらいたい、いつもそればかり思って対応していました。しかしあるときふと気づいたんですね。相手の話を形だけは聞いているが、本心では聞いていないと。自分の心の扉が閉じているのだなと。だから患者さんも怒ったんでしょうね。心の扉を開いてみると反応が変わりました。「先生も大変ですね。頑張って下さい」と言って帰ってくださるようになったんです。
心の扉を開けるのは難しいのですが、練習すればできるようになります。心が通うようになるんですね。
7 脱フュージョンでマインドフルネスを実現する──観察者としての自己
もう1つは考え続けることをいったん止めて思考と現実を区別する「脱フュージョン」です。脱フュージョンとは悩んだり、思い出したり、怒ったりしていることに、飲み込まれないように距離を置いてみる。考え続けることをいったんやめて、考えの世界と現実の世界を区別していく。ちょっと高いところから自分を眺めるようにして、観察者としての自己を自覚する、というものです。
我々の心の中には見ている自分と見られている自分がいる、そういうふうに考えてみます。怒るのは見られているほうの自分で、それを見て「あ、今俺、怒ってる」と気がつく自分がいます。これを「観察者としての自己」といいます。見ている自分と見られている自分を分けていければ、落ち込んだり不安になったりしても飲み込まれないで済むようになります。
観察者としての自己を体験する
では、見ている自分と見られている自分を分けて体験する練習をしてみましょう。
今から私が、いくつかの言葉を読み上げていきます。読み上げると、あなたの心はそれぞれの言葉に反応して、いろいろと動くと思いますが、好きなようにさせておいてください。心の反応を意識的にコントロールしようとしないことが重要です。心の中で起こる出来事に、受け身的に気づくようにしてみてください。ほとんど何も浮かんでこないこともありますし、映像やイメージが浮かんでくることもあれば、気持ちや感覚の動きまで感じられることもあると思います。
では目を閉じてください。これから読み上げます。(1人で行う場合は、ボイスレコーダなどで2、3秒に1つずつ言葉を読み上げて録音した上で、試してみてください)
みかん 鉛筆 テーブル ライオン ガラス
そよ風 落ち葉 銅像 台風 椅子
はい、目を開けてください。自分の心に何が起こりましたか? たとえばそよ風と言われたときと、台風と言われたときとでは、心の動き方が違っていたのではないかと思います。
我々の心は勝手に動きます。我々が考えようとしなくても、思いだそうとしなくても勝手に心が反応して動くんですね。勝手に動くものは自分ではありません。よろしいでしょうか。勝手に動くものは我々がコントロールできないものです。コントロールできないものは、自分ではありません。自分の外側にある、外側で起こっているものです。
じゃあ自分とは何かというと、見ているほうです。見られている自分は自分ではなく、見て気づいているほうが自分なんだ、まあそんなふうに考えてみたらどうでしょうか。
これはそういう練習です。勝手に動くものを観察者としての自分が、特に何もせず見ているだけです。そうすれば動いた心の中に巻き込まれないで済むんですね。
8 距離を置いて自分を極限まで小さくする
我々が何かものを考えるとバーチャルな現実が創り出されます。そうすると、我々はそのバーチャルな現実の風船の中に閉じ込められたような状態になります。1つ考えると次の考えが浮かんできますので、どんどん考えが膨らんでその風船から出られなくなります。我々はその風船の中から外を見ているのですが、その風船が透明な風船だとしても、どこまでが思考でどこからが現実かわかりません。
これが普段、我々がものを考えている状態です。見ている自分も風船の中に取り込まれているので思考と現実が重なって見えるんですね。見ている自分と思考の内容と現実が混同されているのが認知的フュージョンの状態です。
ところが我々はずっとそうかというと、そうでもありません。「これ締切に間に合わないかも」「いや、あの人怒ってたな。どうしよう」「そんなことないか、いやわからない」と、過去を反芻したり、未来を心配したりしているときに、ハッと我に返ることがあります。
ハッと我に返るときというのは、思考が止まるときです。そうするとバーチャルな風船が消えて、自分が風船の外に出られるんですね。外に出ると、先ほどまで考えていた思考の世界と現実の世界を外から見て、見比べることができるようになります。そうすると「同じわけがない」と気づくわけです。これが脱フュージョンです。
観察者としての自己が自覚できると、脱フュージョンが可能になります。思考と、現実と、自分が別物だということに気づく、そういう瞬間がある。これが脱フュージョンが起こった瞬間です。
ところが我々は悲しいかな、またすぐに次のことを考え始めて新しい風船の中に入ってしまいます。だから、脱フュージョンは非常に稀にしか起こりません。
私が専門にしている認知行動療法では、どんなに頻度が低くても自然に起こっている行動というのは練習すれば増やすことができると考えます。これが基本的な発想です。
ですから、非常に稀であっても脱フュージョンが起こるということは、諦めずに練習すれば、脱フュージョンの頻度を増やしていくことができるということになります。
脱フュージョンをするには、見ている自分の自覚が必要です。それが自覚できると、「見ている自分と、思考と、現実が分かれるぞ」ということが捉えやすくなるからです。だから脱フュージョンを練習していくときはちょっと一段上の視点から見ている自分を自覚する、ということが必要になります。
すると、次の問題が生じてきます。見ている自分を自覚するということは、見ているものと距離を置くことになりますが、見ている自分には思考が残っているんですね。
見ている自分が何のために距離を置いているかというと、自分が苦しい思いをしたくないからです。ということは、苦しまないように回避したい自分がまだいるわけです。
そうすると結局、黒雲から出られなくなってしまいます。
雲は思考が創り出す世界ですから、距離を置いて見ようとすればするほど、自分を守るために雲の中にドボンと取り込まれてしまうことにもなりかねないんですね。
そのときに、自分がどこから見ているのかをイメージしてみると出口が見えてきます。自分が黒雲の上の青空から見ているとしたらどうでしょうか。高い高いところから見下ろしてみれば、自分が小さくなる感覚になりませんか。
私は昔、熱気球に乗せてもらったことがあります。かなり上のほうまで連れていってもらいましたが、けっこう怖くて「生きて帰れれば十分だ」ということ以外、余計なことは考えられませんでした。ほかのことを考えようとしても、自動的に後回しになるんですね。「とにかく今ここをちゃんと見て、落ちずに、なんとか無事帰るぞ!」と、どんどん自分がシンプルになっていきました。
空の上に上っていけばいくほど自分は小さくなって余計なものはなくなる、そういうイメージです。見ている自分をどんどん小さくして、自分の中に「見る」という機能しか残さないようにすると、脱フュージョンがうまく実現するようになっていきます。
さらに自分が極限まで小さくなると、自分は点になります。そうなるともう自分とはいえません。自分がいなくなると、仏教で言っている四無量心=慈悲喜捨の心が働く状態になるだろうと思います。エゴのかたまりである自分が小さくなっていくことによって、その心が他とつながって働く。そういう働きが大きくなってくる、そのように考えられるかと思います。
自分がいなくなると、見ている自分と見られている対象の分離がなくなり、見られているところに、感じている自分がいるということになります。距離ゼロの俯瞰です。ここを感じ取って、ここを感じ取って、すべてを感じ取っている。見ているというよりも、その場その場で感じ取っている、そういう注意の使い方になっていきます。
たとえば山登りをしているときには、「苦しい。なぜこんなところに来たんだろう」と思いながら、それでも登っていきます。頂上に立つと、一気にうわっと風景が開けます。そういうときに我々は言葉を失います。言葉を失ってどうなるかというと、まわりの自然がぜんぶ自分の中に流れ込んできたような状態になって、それを全部感じるわけですね。まわりの世界と一体化しているような状態です。究極の脱フュージョンの実現です。
(つづく)