世界的禅僧ティク・ナット・ハン師の著書の翻訳者であるとともに、マインドフルネスのファシリテーターとして活躍する島田啓介氏。島田氏の人生の歩みを描いた著書『奇跡をひらくマインドフルネスの旅』には、章の合間に日常のマインドフルネスの実践のヒントが簡潔にまとめた20の「レッスン」が掲載されている。そこからの抜粋を「サンガジャパンオンライン」でお届けする。
消費社会だからこそ生まれる〈私〉の苦しみ
〈私〉が中心にいるから、いつも私は不幸で苦しい。近代的自我が生まれる以前にも、もちろん肉体的、精神的な苦しみはあったが、その質は違っていた。現代の苦しみは、それに上乗せされている。増幅された苦は、組織が個人から効率的に収奪するためにこしらえた幻想の自己~労働者や消費者としての私から生まれる。
役割としての個人を持続させるためには、価値基準を均質化する必要がある。多くの人が、こう言われて育ったかもしれない。教育機関で学ぶこと、資格を取ること、ちゃんとした職業を持つこと、人並みの消費活動を行える程度に稼ぐこと、勤勉さ、目標設定、年齢ごとに達成すべき業績、最後には立派なお墓……。
マインドフルネスの実践を「筋トレ」に例える場合があるが、それもこの路線上にあるだろう。鍛えることで差別化を図ることに消費主義的な響きを感じる。他者と自分、弱さと強さを比較することが、そもそも苦しみのもとではなかったか。
一緒に涙するとき、ぼくたちは強い。
ひとりでは生きられない人間が、世界の中で調和をもって存在し、しなやかであるためには、弱さが開かれていることだ。ぼくたちは網目のひとつなのだから、〈私〉ひとりが突出しても、かえってもろさが露見して崩れていく。
ゆるやかに結ばれ「ともに揺れる」とき、強い衝撃も吸収されていく。弱いのだから、ともに揺れればいい。強さで結ばれれば、脱落したひとりは置いていかれる。弱さで結ばれたとき、怖れはなくなる。網はしなやかで壊れないからだ。
瞑想会の分かち合いで大切にしているのは、苦しみの共有だ。一緒に涙するとき、ぼくたちは強い。それが弱さのパラドックスである。弱さは誰もが共有できる宝物だ。つながりが社会の原理になれば、怖れなく生きていく基盤になる。それが本当に強いということではないだろうか。そのために、弱さをゆるし合う関係が持てる場所がもっともっと必要だ。
役割によって、役に立つことばかりを要請され、それに応えようとする。資本主義の仕事社会では、どうしてもそうなりがちだ。強者の論理に支配された弱肉強食のシステムである。しかし実際のぼくたちはとても弱い。弱さが受け入れられれば強くなる。この原理を覚えておこう。