これまでの人間の歴史の中で、多くの哲学者や思想家、そして宗教が「道徳」についてさまざまな見解を提示してきた。では、そこから見えてくる「道徳の本質」とは何か? 医師であるともに、医学と工学を融合させた開発に従事する東京大学大学院教授の鄭雄一先生は、AIやロボットに道徳エンジンを搭載するための研究に取り組む中で、古今東西の道徳理論を分析し、そこにある道徳の共通項を発見した。そこで、サンガ編集部では、鄭雄一先生にインタビューし、道徳の要点と私たちが抱きがちな道徳の誤解についてご教示いただいた。理系研究者の立場だからこそ明確に見えてくる「道徳」の真の姿が、これからの議論の「大前提」を新たに提示する。
構成=川松佳緒里
共通項の発見をテーマに
私は、日ごろから仏教をはじめ、他の宗教も含めた世の中のいろいろな教えに「共通の原理」がないかを探しています。それが私の道徳研究のスタンスです。何か共通のものがあったときに初めて個別のものも明らかになると考えています。私自身は、引退したらいずれサンガ(僧団)に属そうと思っているほど仏教に親和性が高いものの、どの宗教も決して否定するものではなく、宗教というのは、非常に人間の本質そのものが結晶化したものなのではないかと思っています。
私と仏教について、はじめに少し触れます。私の育ての親といいましょうか、長く金沢大学の教授をしていたインド哲学研究者の鎧淳先生の存在があります。彼は父の同級生で、中村元先生の下ぐらいの世代の方で、小さい頃から私を導いてくださいました。ラーマ―ヤナー(インド古典文学)の『ナラ王物語』を翻訳したり(『マハーバーラタ ナラ王物語─ダマヤンティー姫の数奇な生涯』 岩波文庫、1989年)、バガヴァッド・ギーターを翻訳しています(『完訳バガヴァッド・ギーター』中公文庫、1998年)。
小さい頃、私は鎧先生にさまざまな場所に連れていっていただきました。彼自身が比叡山で修行した方でしたので、比叡山の中に在家の人がちょっと行って修行したりする道場があったのですが、何度か連れて行っていただきました。そこに、12年籠山行を満行なさり、今では大原三千院の門主となられた堀澤祖門先生もいらして、お話をお聞きしました。それから比叡山から琵琶湖の側に下りた坂本にある東南寺にいらした、千日回峰行を満行なさった葉上照澄先生のところに連れて行っていただいたこともありました。小さかったので全然意味は分かりませんでしたが、そういう環境で育ったので、自然と仏典などにとても興味があり、親しんできたところがあります。
鎧先生はもともとは神父の勉強をされていた方でした。東京神学校を卒業された後に、仏教に転じてインド哲学を勉強し直して比較宗教学の研究をされていたのです。私も仏典に親しみながらも、キリスト教も学んだりしました。鎧先生自身は、キリスト教と仏教などの共通の原理については何もおっしゃいませんでしたが、私には、さまざまな哲学や宗教には、人間に共通の何かがあるのではないかと思え、そういう前提でずっといろいろ考えてきた経緯があります。
あらゆる宗教に共通の決まりと個別の決まり
仏教の道徳は、戒律もありますし、教義としてもかっちりしていますが、さまざまな階層があると思います。誰でも一番守らなければいけないのは、やはり五戒。在家の人も守らなくてはいけない決まりですので。そこからさらにお坊さんとか沙弥が守らなくてはいけないものとか、どんどん細かく専門家向けになっていくわけですね。
私は、いろいろな宗教とか社会の道徳を見たとき、その共通項というものが人間にとって根本的で大事なものなのではないかと考える立場をとっています。仏教の中にもその「共通の決まり」はきちっと入っていて、それはやはり「不殺生」「不偸盗」「不妄語」「不邪淫」、このあたりだと思います。五戒のあと一つは「不飲酒」ですね。これは、共通項ではなく、後ほど解説しますが「個別の決まり」になります。面白いことに、共通項に混じって仏教固有といいましょうか、個別の決まりが入っているのですね。
「不飲酒」というのは、文字通り「お酒を飲んではいけない」という決まりですが、これはキリスト教信者から見たら、聖体拝領ができないことになりますから、とんでもない決まりだということになります。ワイン(ぶどう酒)を主の血としていただくわけですから。他の「不殺生」「不偸盗」「不邪淫」「不妄語」は、いろいろな宗教に共通の決まりだと思われますが、「不飲酒」はイスラムにはありますが、キリスト教ではあり得ません。もちろん、過量に飲むことは駄目だと言っていますが、修道院でビールやワインを造っています。
このように道徳項目を見ていくと、本質的な決まりがあり、それは共通の決まりで、そこに独特で個別な決まりが入ってくるということではないかと思います。
個別の決まりも、たとえば「あまりお金に触ってはいけない」などといったような、案外共通する決まりが多いと思いますが、宗教で言えばそれぞれの宗教によっての強弱があるので、それらは個別の決まりとして扱うべきと考えます。
仏教は世界宗教の一つですし、当然ですが共通部分が非常にきちっと入っています。共通項は、人間の宗教にはほとんど全部入ってきます。
宗教の道徳を扱う上での注意点
先述しましたように、宗教の道徳項目は、いろいろな宗教のほとんどすべてに見られる共通の決まりと、その宗教個別の決まりに分かれています。そういうふうに分類する研究を私はしていますが、世の中ではそれらは混在したままとらえられています。もちろん信者さんも、分けて考えていません。そこで、注意しなければならない問題が起こります。
たとえば、ユダヤ教の教典には、共通の決まりは当然入っていますが、細かい個別の戒律がたくさん入っています。それを信者も教える側も、通常は区別しないでとらえます。たとえばレビ記には、食物の用意の仕方とか、けがれの祓い方などがたくさん書いてあります。それは個別の決まりですが、共通の決まりと個別の決まりとを分けて考えない場合、そうした細かい決まりが守れない人まで、「正しい人間ではない」というとらえ方をしてしまう危険性があるのです。これを極端に言えば、「異教徒は、みんなまともな人間じゃない」という話にもなるわけです。ですから、共通の決まりと個別の決まりを、ものすごく厳密に分けて考えないといけません。
たとえばユダヤ教の十戒には「唯一神だけを崇めよ」とか「神の名をみだりに唱えてはいけない」とか「安息日に休みなさい」などとあります。すると、八百万の神は駄目だとか、南無阿弥陀仏と言ってはいけないとか、土曜日に休まなくてはいけない、ということになってしまい、それが守れない人のことを、まるで「人殺しをしてはいけない」という決まりが守れない人と同じように考えてしまう可能性があるというわけです。そうなると逆に、そういう細かい規則が守れない人や異教徒に対しては何をしても許されると考える社会になっていってしまいかねません。
ここが道徳を考える上での大きなポイントです。人間全体に共通の決まりと、地理や気候が異なれば当然異なってくるような社会・文化ごとの個別の決まりに分けてとらえる必要があります。人間共通の掟と、社会個別の掟、ですね。まずこれをきちんと区別することが、とても大事だと思います。
そういう意味で見ると、仏教の中でも、たとえば、非常に細かい僧侶に対するいろいろな戒律などは個別のものになっていくのかな、と思います。
こういう研究に取り組んでいる人はなかなかいないようです。学会で言えば、倫理の学会もいくつか日本にあるのですが、たとえば「医療倫理」のような専門分野に分かれた倫理であって、「そもそも倫理とは何か?」という前提を考えている人はほとんどいません。私は光吉俊二というロボットの学者と一緒に、いつも「多様性と道徳性は両立するか」というテーマについて考え、研究を続けています。
多様性と道徳性は両立するか
私はもともとは医者で、やっていることは基本的に組織工学や再生医療です。そういうサイエンスをやっているので、最終的には、最高のものやシステムやサービスを作りたいと思っているのです。そのためには国境や分野を越えて多様な叡智を集めなくてはいけません。すなわち、国際化と分野融合です。その際、境界を越えて多様で異なる価値観に触れることになるので、当然、各自の道徳体系が問われると思います。
分かりやすく言えば、海外から来る留学生たちが我々と同じような道徳体系を持っている保証は、実はどこにもありません。当たり前だと思ってみんなグローバリゼーションとか分野融合とか言ってやっていますが、意外と我々は道徳体系のことをちゃんと考えていないな、というのが正直なところです。
今の世の中では、典型的には「よそ者は追い払うべきだ」という考えと、「世界中の人間が仲良くすべきだ」という考えがあって、これは正直言って全然妥協できない関係になっています。どちらにどんな根拠があるかということですが、私はどちらも怪しいと思っています。これが本質的には何を言っているかというと結局、多様性と道徳性は両立するか、ということを言っているのだと思います。一方は「道徳性が一番大事」と言っているし、一方は「多様性が一番大事」と言っている。ここで、道徳性と多様性の両立ができるかが重要な論点なのですが、「そもそも両者は本当に両立するの?」というのが私の疑問です。
貨幣価値軸社会システムの限界
現在、格差や差別や分断が大きな問題となっていますが、幸福な新社会システムの創造は貨幣価値軸だけでは無理だろうと思います。これは仏教をやっている方は、みんなが思っているところではないでしょうか。残念ながら、今はなんだかんだ言って、結局、すべてお金が評価軸となっています。ですから、我々は貨幣価値軸だけではない新しい価値軸をどこかにきちんと立てないといけません。「そんなもの、立っているよ」と言う人がいるかもしれませんが、観念だけでは駄目なのです。
なぜ、他の価値軸がみんな貨幣価値に負けてしまうかというと、貨幣というのは測って、「見える化」することができるからです。貨幣価値軸に代わる新しい価値軸とかいくら言っても、計測・可視化できない限りは絵に描いた餅であり、説得力がありません。だから、新しい価値軸をちゃんと計測して「見える化」する必要があるだろうと思っています。
ですから研究のテーマは二つです。一つはグローバリゼーション・分野融合と道徳体系のこと。もう一つは新しい価値軸が必要ではないかということ。一応、今までの道徳哲学の文献などを読みましたが、正直言って19世紀以前のものだと科学はほとんど入っていません。もう21世紀ですし一応、科学的なやり方を取り入れましょう、と思っています。問題点を検出して、分析して、統合・モデル化するというPDCAサイクルで、しかもゼロベースでやりましょう、と。これまでの西洋の道徳哲学は、残念ながら最後に自分の生まれ育った文化の道徳に無批判に戻ってしまったりするのです。そういう「なんとか主義」「なんとか教」「なんとかイデオロギー」に頼るのは止めましょう、科学でいきましょう、ということです。
道徳の問題点を粗視化して考える
道徳について考えていこうとするとき、はじめに大事なのは問題設定です。「既存の道徳の問題点は何でしょうか?」ということです。ここがとても肝心で、的確に設定できないと、そもそも正解にも行きつけないと思います。
あともう一つ大事なのは、科学で非常に重要な方法である「粗視化」です。複雑で細かい事象があったときに少し視点を引いてみると、実はこれは塊になっていたというようなことが分かる。そのような観察・思考方法を「粗視化」といいます。「粗視化」すると複雑で細かいものから、より本質的なものが見えてきます。
まず、どんな問題があるかということを三つ、挙げます。ここで、もっともしてはならない悪いことだと一般的に考えられている殺人を対象に取ります。コソ泥とか、ちょっと道端で小便するとかを取り上げてしまうと、善悪が曖昧になってしまって、結局、単純化することができなくなってしまいます。粗視化するときのポイントです。なので、第一にわざと殺人を例に取ります。
1:誰が、なぜ、殺人はいけないと決めるのか?
誰が、なぜ、殺人はいけないと決めるのでしょうか? 聞いてみると結構、いろいろな答えがあります。もちろん、信心深い人は「神や仏が許すわけがない」と言います。しかし、宗教を持っていない人でも「そんなの、考えれば当たり前だよ。駄目に決まっている」となるわけですね。これを整理すると、疑問の1はだいたい大きく二つに分かれます。
一つは「社会の権威ある存在が決めた」という社会中心の答え。対するもう一つは「自分の心が決めた」という個人中心の答えです。
それぞれに対応して「なぜ」への答えがあります。社会の権威ある存在が決めた理由は「社会が壊れるのを防ぐため」だし、「自分の心が決めた」理由は「自分が死にたくない」というのが答えになる。もちろん、ちょっとオーバーラップはありますが、だいたい、このように二つに分けられます。
2:なぜ戦争や死刑では殺人が許容されるのか?
疑問の2は、「なぜ戦争や死刑では殺人が許容されるんですか?」ということです。もちろん「それは駄目だ」と言う人はいるのですが、現実を見ると、そうなっていません。
いろいろな答えがあって、「国が奪われるから」「権力者が命令したから」「やられたらやり返すのは当然」「そうしないと自分が殺される」などがあります。この答えを分類すると、やはり社会中心の考えと個人中心の考えの二つに大きく割れていて、「社会を守るため」と「自分の命を守るため」に分かれます。でも、よく考えると殺人を禁じていない社会というのは基本的にないのですから、そもそもこの殺人が許容される理由については、第一の疑問に対してはどちらの答えも矛盾であるということになります。
3:(多様な)人類全体に共通の道徳原理はないのか?
最後の疑問3は、「じゃあ、多様な人類全体に、共通の道徳原理はないのか?」という疑問です。疑問2に対する答えからすると、「殺人はやっていい場合もあるけど、いけない場合もある」、あるいは、「殺人は良いとも悪いとも言えない」、ということになってしまいます。なので、殺人のような根本的なところでも、場所や時間が違うと善悪の区別も異なる、ということになります。すると結局、「グローバリゼーションを裏付ける道徳体系というのは、実はないのだ」ということになってしまい、大きな道徳の空白があるのだということになります。
(第2回に続く)
(2018年10月16日 東京)