精神科医として臨床に携わる一方で、テレビのコメンテーターや評論など、さまざまな分野でご活躍されている名越康文氏。相愛大学・高野山大学の客員教授であり、仏教心理学や瞑想法にも精通している。その名越氏に、お釈迦様が「医王」とも呼ばれた理由について尋ねながら、仏教が現代医療にもたらすインパクトについてお聞きした(第2回はコチラ)。
構成=川松佳緒里
「縁」としての医療
──仏教でも、「老いていく流れの中で体が病気になることは当然のことだけれども、それより大きな問題は心が病気になることだ」ということが言われます。名越先生がおっしゃっていることも、そこにつながってくると思います。
名越 そうですね。もしかしたら近い領域のことを、僕なりに申し上げているのかもしれません。
病気になったあとの療養期においても、心理的な要因が深く根ざしていると思います。優しい言葉をかけてもらうことで、回復が順調に進むこともあるでしょう。べったりケアされることがかえって良くなくて、どうもいまいち自分の力が出ない、ただ何気ないひと言や笑顔だけで、とても軽やかな気持ちになり、その日1日が本当にいい療養として経過するようなこともある。あるいはものすごく粗雑な扱いを受けて、気分が疲弊して療養にならないこともある。そういうことに、もっと興味の薪をくべて、具体的・構造的・計画的に光を当てていったほうがいいと思います。
──また、実際に病気になっている方に、前向きな気持ちになることの大切さを伝えることは、とても難しいことだと感じます。やはり病気になると、マイナス思考になりがちですが、そのような方に対して、「前向きな気持ちを持ったほうが病気の治りが良くなるよ」と具体的に言っても、説教くさくなってしまい、なかなか思いが伝わらないことが多いです。どうすればよいのでしょうか。
名越 そうですね。僕自身も病気になるときがありますからわかりますが、病者は自分が身体的に弱くなりますよね。つまり一時的に弱者になる。誰だって病気になれば弱者です。弱くなると、論理的な助言よりも、その人の言葉の響きや空気にものすごく敏感になるんですよ。
ですから、因果律には「縁」というものがありますが、「因」になるよりも「縁」になる技術が大切なのではないか、という気がします。
「こういうことをしてみなさい」というのは「因」になろうとしているわけです。直接的に言っている。僕自身もよくやってしまうのですが、直接的な「因」になろうとするのは稚拙なんです。それよりも、さりげなく関わって明るい気持ちにしてあげたり、一瞬だけでも声を上げて笑えたりするようにしてあげる。これは「縁」という感じがします。「縁」の1つとして、自分をパフォーマンスするようなこともいいですよね。そういうことを勉強することも、実は医療の一部であると思います。
直接的に「この人の病の根本的な部分を治すために助言をしよう」なんて考えてやると、たいがい人間には自由意志があるから反発されたりしますし、そもそもその発想や助言自体が間違っていたりするものです。
そうではなく、春風のような心地よさを与えることができたら嬉しいとか、おいしいものをちょっと持っていってあげようとか、背中をさすってあげようとか、側面からちょっと寄り添ってあげることが、実はひじょうに医療行為としての意味があるんじゃないかと思います。
でも、それがすごく難しいんです。僕たちはもう合理主義に飼いならされているから、「そこが痛いのか? じゃあ、こうすればいいんだ」「そんなことに悩んでいるのか?それは忘れたほうがいい」とかね。もう必ず、「因」にしようとするんですよね。自分自身が何かその人を解放する教祖みたいになろうとする。
──具体的に解決しようとすればするほど、そうなってしまいますよね。
名越 実際は、相手が抱えている問題を大げさに考えるのではなく、側面からちょっとした波を起こしてあげることが、意外に効果的だったりするんです。だって、その人の体の中には、自然治癒力が絶えず働いているわけですから。表面的には自然治癒力がなくなっているように見えるときだって、何かのきっかけで自然治癒力が活性化すれば、ふーっと一気に立ち直ります。まだ自然治癒力が残っているんだけど、それがゼロのように見えている人はけっこういます。ですから、大それた考えで「自分が因になろう」となんて思わないで、ちょっとした縁を結ぶだけで、変わってくることは多いと思います。
外科の名医が難しい手術を成功させたとしても、縫った傷口が自然治癒力によって付かないとどうにもなりませんよね。僕が知っている限り、名医であればあるほど「結局、治すのは自然治癒力だ」ということを言います。それは特別に謙虚に見せているわけではなく、実感としてあるんだと思います。
慈悲=治癒力の足りない現代で
──相手の側面から寄り添い、治癒力を活性化させてあげるというお話は、お釈迦様の慈悲の考え方ともつながってくるように感じました。最近、慈悲の効果、「効果」と言うと西洋医学的に聞こえてしまいますが、慈悲の重要性が注目されているように感じます。名越先生から見て、いかがでしょうか?
名越 それはもう、この現代ほど、慈悲の力が色あせた時代はないでしょう。僕自身への戒めも込めて言うのですが、何かにつけて人を断罪する、揚げ足を取る、責める。「正義のため」と言うけれど、そこには慈悲がありません。慈悲のない正義は、分断と暴力以外の何物でもありません。
慈悲という思想はアジアから出てきたはずなのに、僕たち日本人は、慈悲の重要性について理解していないように思います。慈悲の力こそが自然治癒力、人間の生命力を賦活する根本的な力です。慈悲の力が広がっていかないと、人は幸せになれないどころか、治ることもできないし、立ち直ることも立ち上がることもできない。生きる力が出てこないんですよ。
僕たちは60兆の細胞で体ができていると言われているけれど、その細胞の1つ1つがうわーっと振動し始めて、いわば活性化して、その結果として自分が「今日1日、張り切って生きるぞ」「この困難を乗り越えるぞ」「少しでも多くの人を助けるぞ」という気持ちになれるのは、慈悲の力がどこからか満ちてくるからだと思います。それがないと、僕たちは生きる屍のようになってしまう。慈悲心というのは根本的なエネルギーです。それは視覚的には見えないものだから、ものすごくないがしろにされています。現代社会は慈悲の酸欠状態だと思います。
──慈悲が酸欠状態にならないために、慈悲を育てるためにはどうすればよいのでしょうか。
名越 少なくとも、慈悲のメカニズムを知ったほうがいいと思います。人にどういう態度で臨むかが、結局、自分にも返ってくるし、周りにも返ってくるのだということです。この因果律を知ったら、怒りや憎しみの感情で生きることは怖くてできません。
そもそも僕たちは、間違いだらけの人生を歩んでしまうものなのだから、他人を責めたてるような柄ではないだろうと思います。自分が人に数限りなく許され、優しくされ、大目に見てもらい、幼い頃からずっと命を育んでもらったのだから、人に対しても同じように接しようという素朴な人間知が大切なのではないでしょうか。
しかし現状は、たとえばSNSで仮面を使って別の自分になりきって、完璧な自分を演じて攻撃したり、馬鹿にしたり、揶揄したりする。そういう、ひじょうに慈悲の空気が薄い世界があり、それが途方もなく広がっている側面があります。
しかし逆に言えば、可能性があるということでもありますね。慈悲の大切さに気づく人が少しでも増えていけば、その影響力は波紋のように広がって大きなものになるだろうと思います。僕の影響力はたかが一滴にすぎませんが、ほんの少しでもいろいろな機会を通じて分かち合っていきたいと思っています。
(2017年9月20日 東京/隣町珈琲にて)