道徳の本質を抽出する:宗教の掟にみる共通項と個別性(鄭雄一氏インタビュー)〔第2回(全2回)〕

東京大学大学院教授の鄭雄一先生は、AIやロボットに道徳エンジンを搭載するための研究に取り組む中で、古今東西の道徳理論を分析し、そこにある道徳の共通項を発見した。そこで、サンガ編集部では、鄭雄一先生にインタビューし、道徳の要点と私たちが抱きがちな道徳の誤解についてご教示いただいた。(第1回はコチラ

構成=川松佳緒里

道徳の問題点における過去の検証

 道徳について、過去の思想はどう取り扱っていたのでしょうか。私はこのことに中学の頃からずっと頭を悩ませていました。教科書を読むと、思想はいっぱいあるわけです。いっぱいあって、だいたい年代順に並んでいて、しかも東洋と西洋とに分かれていたりします。「どうしたらいいんだろう。これを類型化できないことには、それに対する対処も評価をすることができないし」ということでずっと悩んでいました。

 そして、先ほどの1、2、3とあった疑問のうち、1、2に対する回答がともに「社会中心の考え」と「個人中心の考え」に分かれたところに着目しました。ここで二つに大きく割れているということは、要するにこれ自体が人間の道徳に対するスタンスなのではないかと。そして、この考え方を使って分類すると、過去の思想もかなりきれいに「粗視化」できるということが分かったので、それを使って検証します。

社会に重点を置く道徳モデル

 本当にざっくりなのですが、第一は「社会に重点を置く道徳モデル」です。「理想の社会がありますよ。そこで決まった理想の道徳がありますよ」というスタンスです。

 まずは宗教がそうなっています。教祖のような存在があって、善悪の基準があり、理想の社会というのがビシッと決まっていて、そこで決まった理想の道徳を守りなさい、というものです。もし迷ったら教典を読んだり、宗教者のところに行ったりすればいいということになります。

 宗教まで行かなくても、伝統や習慣がその代わりをしていることもよくあります。たとえば孔子の教えとか、儒教も一種の宗教に近くなっていますね。あとは、アリストテレスの思想もあります。

 会津の「じゅう」などというのが、かつて大河ドラマ『八重の桜』で有名になりましたけれど、什の掟の最後に「ならぬことはならぬものです」と書いてあります。「ならぬ」ともう決まってしまっているわけですね。要するに、つかみどころのない現実に、考えたり行動するための特定の枠組みをくれるのですが、基本的には問答無用であるということです。分かりやすく子どもに教えるには便利です。これをさらに「粗視化」すると、「特定の社会の神格化」であるとなります。

「特定の社会の神格化」とは、今でも過去でもいいのですが、ある素晴らしい社会があって、そこでやっていたことはすべて理想的なことだったというような考え方です。客観的に見れば、いわゆる「右翼的」思想というのはこの典型で、「あの時代は良かった」とか「誰々は偉大な人で、あの人の言うことはすべて正しく、その通りになんでもすればいいんだ」とか、そういう考え方になってきます。

個人に重点を置く道徳モデル

「社会に重点を置く」という道徳モデルに対して、そうではないものというのは当然、「個人に重点を置く」という道徳モデルなります。こちらの人たちが言っているのは、「道徳は個人個人が決めるもの」ということです。これは、テイストの違いからデカルト以前と以降で分けています。ただ、根本的主張は同じです。

 まず「デカルト以前」の代表例は、韓非子、マキアヴェッリです。彼らは、「個人というのは利己的な存在で、社会というのはその人たちが手段を選ばずに戦う戦場である」と言っています。それから、ストア派、エピキュリア派、ソフィストたちです。この人たちがなぜ一緒なのかと思うかもしれませんが、粗視化すると結局は個人中心主義なのですね。ソフィストなんか完全にそうで、「自分の考え方次第で善悪なんか変わってしまうのだよ」と言います。老子も荘子もそうです。荘子が特に極端で、「人間の言葉で行う善悪の区別なんていうのは実体がない」とはっきり言っています。一種の唯心論ですね。「個人個人が決めるもので、共通の道徳などというものはないんだよ」と。そもそも道徳に関心がないですし、この人たちは殺人の善悪なんて一つも論じていません。マキアヴェッリにいたっては、良い殺人と悪い殺人があるみたいなことを言っていて、その基準は善悪ではなくて要するに権力を掌握するのに役立つか役立たないかです。残酷なこともたくさんしたチェーザレ・ボルジアのことを称賛しています。倫理の「り」の字もないですね。

 この人たちの言っていることは結局、良いも悪いも個人が決めているものだということです。そもそも道徳とは社会で決めるものですが、それを否定してしまっているのですね。だから難しいところですが、いわゆる「道徳はない」と言っているのと実は同じであろうかと思います。

 ただ、「デカルト以降」になるとちょっと違います。何が違うかというと、人間の共通の能力を前提としている点です。デカルト以前のネガティブな人間観と違って、「人間共通の理性とか感情はあるでしょ。知性とか反省とか想像力があるでしょ」と言っていて、そういうものを前提としているわけですね。そして、個人を社会から切り離して、前者を後者より上位にもってくるのです。観念論の流れを汲む、デカルト、カント、ニーチェ、キルケゴール、サルトルなどは、まったく違って見えて、実は、その点は同じです。経験論、社会契約説、功利主義なども、見た目は違いますが、やはりそこは共通しています。

 デカルトが言っているのは、「自由で理性的な個人が主役」ということです。そういう前提があるわけです。デカルト以前のものは、そんなものはなかったのですが、デカルト以降では、個人を社会から切り離し、社会より上位に位置づける。そして「自由」で「理性」を有する個人が主役になってくるということですね。

 ところが、よーく考えると「その前提は本当か?」という疑問が生まれます。本当に「自由」で「理性」を有するような個人がどれだけいるのか、ということです。これはよく吟味されていないのですが、基本的に、自由な人間なんて一人もいないというのが私の回答です。

 要するに、「個人に重点を置く道徳モデル」はある意味、個人を神格化してしまっているのです。「社会に重点を置く道徳モデル」では、特定の社会を神格化していましたが、その反動で、今度は個人の人間を神格化してしまっていて、いわゆるこれが「左翼的」思想の源流になっていると考えています。

 典型的なのは、たとえば「人を殺すのはいけないから死刑反対」というような議論です。「人なんだから、絶対殺しちゃいけない」ということです。しかし、人間の今までの歴史的な状況からすると、それはあり得ない考え方です。それについては後で述べたいと思います。

社会重視モデルと個人重視モデルの問題点

 先述したように、デカルト以降の「個人に重点を置く道徳モデル」は、個人を社会から切り離して、社会より上位に位置づけたというところが特徴です。「自由」で「理性」を有する個人というのがすべての議論の前提になっています。

 実は、そこに大きな問題があって、デカルト以前の人たちほどではないにしろ、社会というか属する集団を否定してしまっているのですね。

 それ以前の中世の教会支配の社会では、個人は社会と融合していたと思います。それが特定の社会を神格化する教会支配のアンチテーゼとして個人の復権を画策する中で、突然、個人と社会が分離されてしまったわけです。特定の社会の神格化の反動で、別のものを神格化してしまったのだろうと考えられます。

「社会に重点を置く道徳モデル」も「個人に重点を置く道徳モデル」も、ともに限界があります。「社会に重点を置く道徳モデル」は、当然ですが明確な枠組みをくれて、安定して迷いがありません。しかし一番の問題は、「理想の道徳」を持つ社会同士が衝突すると、無力になってしまうところにあります。宗教戦争が典型です。お互いに、無条件に自分が一番正しいと思っているので、とてつもなく残虐な争いになってしまいます。

 一方の「個人に重点を置く道徳モデル」は、現代で人気ですが、当然ながら、具体的な道徳の枠組みは構築できません。デカルト以降の西洋の観念論を見ても、殺人が良いとか悪いとか、そんなものは一切明確にできていない。導けないのです。カントですら無理です。するとどうなるかというと、紛争を傍観するだけになってしまいます。

 つまり、一方は多様性を担保できず、一方は道徳性を担保できないということになるわけで、いずれも多様性と道徳性は両立できません。「多様性と道徳性の両立」は、そういうわけで既存の思想の枠組みでは、ちょっと難しいのではないかというのが私の見解です。

道徳の基本原理を戒律から探る

 問題点ばかり挙げてきましたが、そもそもいずれの宗教戒律も、思想・主義も天才級の頭脳の持ち主が論じたもので、しかもこれまでそれなりに支持を受けてきた考え方です。一方的に社会重視か個人重視のどちらかが間違っている、ということではないだろうと推測されます。しかし、実際問題として、多様性と道徳性を両立することができていません。そこで、「もしかすると、彼らの思想は部分的には正しいものの、その視点が全体をとらえていないのではないか。道徳の本当の姿は、実は立体的なものではないか」という発想が出てきます。

 ある視点からだけ見ていると個人重視だと思うし、別の視点からだけ見ていると社会重視だと思うのではないかと。ちょうど円柱を見るような感じですね。上からだと円に見え、横からだと長方形に見えます。要するに、それぞれ一部の真実は含んでいるものの、不完全なのではないか、道徳の姿を虚心坦懐に見ると、実は二重性があるのではないか、と。そこで、道徳の真の姿を推定するため、具体的な掟である宗教戒律を調査してみることにしました。

 宗教戒律を調査することにした理由は、残念ながら個人中心の考え方については、その掟を具体的に提示してはもらえないので、見ようがないからです。

 仏教から、さらにキリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教、ユダヤ教などまで、さまざまな主要な宗教の戒律を見て、共通項を抽出してみました。その共通項によって道徳の基本原理が見えてくるはずだと考えたのです。

 仏教の五戒は、次の五つですね。

 ①不殺生戒:生き物を殺してはいけない。
 ②不偸盗戒:他人のものを盗んではいけない。
 ③不邪淫戒:不倫してはいけない。
 ④不妄語戒:嘘をついてはいけない。
 ⑤不飲酒戒:酒を飲んではいけない。

 他宗教では言い方もちょっとずつ違いますし、ニュアンスが違う場合もあります。それに、特にヒンドゥー教などがそうなのですが、カースト制度があって、100パーセントの人権を持つ「人」とそうではない「人」がいます。ここでは100パーセントの人権を持つ「人」を基本に、共通項を抽出してみました。すると、だいたい「殺人はいけない」「人のものを盗んではいけない」「人をだましてはいけない」というのは、必ず入っています。五戒で言えば、不殺生・不偸盗・不妄語ですね。これら三つをギュッと粗視化してまとめると、要するに「人に危害を加えるな」という決まりだと言えます。

 漢の高祖の「法三章」もそうです。漢の高祖が秦を滅ぼして関中に入ったときに、秦のものすごく細かい法律を全部止めて、「法は三章のみ」と言って、基本的に、殺人・傷害・窃盗だけを罰するとした三か条の法律を設定しました。これも、まとめると「人に危害を加えるな」ということで、それだけを最低守ればいいんだよ、ということですね。

戦争や死刑がなくならない理由

 ここまで考えたときに、「殺人はいけない」「人のものを盗んではいけない」「人をだましてはいけない」というのはすべての宗教の掟に共通しているのに、なぜ戦争や死刑ではそれが守られないのか、という疑問が起こります。

 聖徳太子は仏像を彫りながら、物部氏の滅亡を祈っていました。かつての僧兵が、五戒を知らないわけがありません。しかし、殺し合いをしていました。十字軍だって、字が読めない人が大半だったと言いますが、まさか十戒を知らない人はいなかったでしょう。現代のイスラム教の宗教原理主義テロリストだって同じで、コーランにちゃんと書いてあります。それなのになぜ、戦争や死刑はあり続けるのか。掟と現実とはまったく矛盾したものになってしまっていると言わざるを得ません。

 この点は、実は非常に悩みました。結局は現実はカオスで、掟はないものねだりの理想を述べているのに過ぎないということになります。しかし、よくよく見ると、この「人」という言葉の意味が鍵であると気づきました。

 掟の共通項は、まとめて言えば「人に危害を加えるな」で、「殺人はいけない」「人のものを盗んではいけない」「人をだましてはいけない」と、「人」に対する禁止で成り立っています。
しかし、その「人」とは何でしょう?実は、我々が「人」と言ったとき、実はほとんどの場合、生物学的人間は指していないのです。

 我々が「人」と言うとき、仲間の人間だけを指す場合がほとんどです。たとえば、子どもに「人の痛みを知りなさい」などと教えるわけですね。「じゃあ、死刑囚の人はどうなるんですか?」とか「戦争のときはどうしたらいいの?」と言うと、親は答えられなくなります。なぜなら本当は、「仲間の痛みを知りなさい」と言っているだけだからです。ですからその国なり集団にいるときには、何の矛盾もなく「人の痛みを知りなさい」とか「殺してはいけない」などと言うのです。

 共通項として抽出された「人を殺してはいけない」「人のものを盗んではいけない」「人をだましてはいけない」について、「人」の部分を「仲間の人間」と置き替えると、あらゆる社会に共通の掟となります。「仲間の人を殺してはいけません、仲間の人のものを盗んではいけません、仲間の人をだましてはいけません」。聖徳太子も、僧兵も、十字軍も、宗教原理主義テロリストもみんなオッケーです。ヤクザもマフィアもオッケーです。すなわち、道徳というのはもともと、仲間同士の内輪の掟なのです。非仲間には、生物学的に人間でも適用されません。

「人」とは「仲間」

 道徳を考えるとき、「人は」「人間は」などという曖昧な言い方をして、その意味をよく考えないと果てしなく議論が続き、収束しないと思います。実際に、そういう議論がよくあります。たとえば、「『人を思いやりなさい』とか言うけれど、その『人』って誰なんですか? そこに今、まさに銃をバンバン撃ちながら来るような人も入っているんですか?」という疑問です。本当は、仲間に対する掟が道徳なのです。「人」とは仲間。それを間違って、「生物学的人間一般」としてとらえていったら滅茶苦茶なことになります。

「人」とは通常、「仲間の人間」を指す。ここが分かっていないがゆえの勘違いが世の中にはたくさんあります。たとえば、チャールズ・チャップリンの映画『殺人狂時代』(Monsieur Verdoux)の最後に、ヴェルドゥが死刑を宣告されて、「俺は一人殺したんで、悪人になった。だけどあの第一次世界大戦で100万人殺したやつが英雄になってるじゃないか」というような趣旨のことを言うわけですね。これは間違いです。ドストエフスキーの『罪と罰』のラスコーリニコフも、「ナポレオンはたくさん人を殺したから英雄になったんだ」という趣旨のことを言うのですが、これも間違いです。数は関係ありません。どんな人を殺したかが重要で、仲間を殺すのは悪人で、敵を殺すのは英雄なのです。これは常に当てはまります。

 ここまでくると、次に「じゃあ、仲間って何なんですか?」というポイントにたどり着きます。私はわざと複雑な言葉を使わないようにしようと考えていて、「仲間」と「親しみ」ぐらいの言葉でずっと考察を続けようと思っています。

「仲間」といったら、誰を思い浮かべますか?たぶん親友とか家族とか近所の人をぱっと思い浮かべると思います。では、その人たちは一体どういう人でしょうか?まずは繰り返し出会っているということが重要だと考えます。「仲間」と言うなら、いきなりぱっと出会っただけの人とかいうことではないと思います。そして危害を与えない人。家族とか友人は積極的に助けてくれますが、近所同士だとただ挨拶するぐらいの人もいるわけですね。そういう人も仲間ととらえているでしょう。つまり、繰り返し出会っていて危害がないということが大事で、これが我々の中に、親しみのようなもの、安心感を植え付けるのです。急に襲われたり、危害を加えられたりする可能性が低い人。すると我々は「こういう人たちとなら仲間として一緒に協力、分業できそう」と思え、仲間意識が生まれるのではないかと思います。

 ピンとこない人もいると思うので、補足しますが、考えてみると、我々は親しみを通じた仲間意識を動物にも抱きますね。哺乳類はもちろんですが、昆虫とか爬虫類をかわいがる人もいます。向こうは何とも思ってないですよね。それどころか、物に対してだって親しみと仲間意識を抱くでしょう。趣味で集めている物などです。そのとき、物たちは当然、何もしてくれません。風景だってそうです。毎日毎日、富士山を見ていれば、何となく親しみを覚えて郷愁みたいなものを抱きます。

 つまり、仲間というのは、長い間繰り返し出会っていて危害の心配がない相手であり、生物であろうと無生物であろうと同じで、思考・行動が予測できて、リラックスして接することができる対象に仲間意識が生まれるのだと思います。仲間意識とは特別なものではなく、人間以外のものも含んでいる。そう定義して使っています。

仲間と道徳

 人間は仲間と協力・分業して社会を形成します。我々がすでに享受している電気や水道をはじめ、学校・病院・警察・消防などはすべて、一人では無理で、協力・分業することによって成り立っています。その協力・分業の範囲が社会の範囲であり、いわゆるこれが道徳の適用範囲となります。そして、道徳は仲間と協力・分業するための内輪の掟なのです。これは、かなり「粗視化」して言ったことです。

 仲間意識のバロメーターは、罪悪感とか同情です。たとえば、元オウム真理教の教祖で死刑になった松本智津夫に対し、ほとんどの人は同情していないと思います。同じ人間なのにもかかわらず。それは暗に、「彼は仲間じゃない」と思っているからです。あるいは、今この瞬間にもアフリカなどではたくさんの子どもが飢えて死んでいます。でも我々の多くはあまり同情を覚えたりしません。それよりも、日本で、今住んでいる地域のすぐ近所でお母さんに虐待されて子どもが死んだとなったら、とても同情するでしょう。やはり仲間意識が薄いと、同情を感じにくいわけです。

『罪と罰』のラスコーリニコフもそうですね。最初は、強欲な質屋のおばさんを殺しました。その後、おばさんの妹が帰ってきて、行きがかり上、その妹も殺してしまいます。しかし、妹のほうは善良な人だと彼も知っていて、強欲なおばさんを殺してもまったく罪悪感はなかったものの、妹のほうを殺した罪悪感で彼は自白するわけです。ですから、問題は、「生物学的人間」であるとかないとかではないのです。「仲間なのか、仲間じゃないのか」です。

 このように、我々は仲間の中では道徳はよく守るし、守る努力をします。これは歴史的に見てもまったくその通りです。逆に、非仲間には道徳は適用されません。

道徳の二面性と統合性

 モーセの十戒を見ると、仲間の中だけで適用される決まりと、すべての社会に共通している決まりとに分けられ、道徳に二面性のあることがよく分かります。

・社会ごとに異なる決まり(ある仲間うちでの固有の決まり)
 ①主が唯一の神である
 ②偶像を作ってはならない
 ③神の名を徒らに取り上げてはならない
 ④安息日を守る

・すべての社会で共通の決まり
 ⑤父母を敬う
 ⑥殺人をしてはいけない
 ⑦姦淫をしてはいけない
 ⑧盗んではいけない
 ⑨偽証してはいけない
 ⑩隣人の家をむさぼってはいけない

 ①~④については、仏教徒や神道の人間にはどうやったって守れないものです。「守れないから、おまえ人間じゃない」とか言われたら困るわけですね。⑤以降は、姦淫がどこまで入るかは社会によって変わるかもしれませんが、「人の物を盗んではいけない」ということの一つだと考えれば、共通の決まりであり、やっぱり道徳には確かに二面性があるということが言えます。

 では、その二面性というのは、元々別のもの、まったく無関係なもので、それを木に竹を接いだようなものでしょうか。この二つを統合するような論理があるかについて、ずいぶんと考えてみました。そして、統合原理は「ある」という結論に達しています。

 道徳の二面性の統合原理は非常にシンプルです。それは、「仲間らしくしなさい」という決まりだと思います。そして、この決まりは二面性を元から持っています。「仲間らしくしなさいよ」と言われたとき、一つは、それは「仲間と同じように考えて行動しなさいよ」ということです。空気読めよ、ということですね。しかし、仲間の範囲とともに当然、内容も変化します。「仲間と同じように考え、行動する」というのは、日本のそれと、アメリカのそれとはけっこう違うわけですね。

 分かりやすい例は挨拶のやり方です。会ったときにお辞儀をするとか握手をするとか、国や文化ごとに違っていて、どちらが良いとか悪いはまったくありません。同じやり方をするということが重要で、別にどっちでもいい。要するに異なる社会ごとに展開する枠組みの思考や行動の標準化なのです。なぜ、そんなことをするのかと言えば、軍隊と同じで、やると社会のまとまりが良くなるからです。「右向け右」と言われたときに、同じ角度に曲がったほうが軍隊は強くなるのと同じで、思考や行動が標準化されたほうが社会のまとまりが良くなります。しかし、これは一方で、多様性を阻害する可能性があります。

「仲間らしくしなさい」と言ったとき、当たり前すぎてあまりみんな気づいていませんが、共通の決まりもあって、それが「仲間に対して危害を加えない」であるというわけです。仲間を傷つけたり、盗んだり、だますことを許したら、社会の根本である協力と分業は成り立たないので、当然駄目なのですが、これが共通の掟なのです。

道徳における個別部分と共通部分

 ということで、「道徳には個別部分と共通部分があるのだ。Duality(二重性)があるのだ」と認識することが重要です。我々は通常、その二つを区別せず、ごちゃごちゃにしたまま仲間らしさを判定してしまいます。挨拶は分かりやすい例です。日本人なら、お辞儀をするタイミングで握手をしてくる相手だと、「ちょっと変じゃないか」と感じますよね。異国の人と接するときは、だいたいそういうふうになります。それは個別部分と共通部分がごちゃごちゃになっているからです。

 正直言って、お辞儀か握手か自体はどうでもいいわけです。何が重要かというと、単に同じようなことをすることだけであり、中身は重要ではない。だって、挨拶の仕方は、時代や地方により変わっているわけですから。問題は一つ。個別部分と共通部分という二重性を認識しないでごちゃごちゃにしてしまうことです。

 アメリカ中西部の田舎町に行くと、ほとんどがいわゆる白人のキリスト教徒で、海外に行ったこともないし、下手をすると外国人に会ったこともないような人が多くいます。そういう人たちが外国人を見たらどうなるか。たとえばいつもスカーフを被って髪を隠していたり、箸で食べていたりしたら、「まともな人間じゃない」となります。それは、個別部分と共通部分に分けて認識しないからです。「それは個別の内容なのであって、絶対犯してはいけない共通の掟ではありませんよ。ここは違っていてもいいんだよ」ということが分からなくなってしまうのですね。そこが今のアメリカの根本的な問題の一つかなと思います。

「仲間らしくせよ」という道徳の基本原理

 先述したように道徳の基本原理は「仲間らしくしなさい」という決まりで、その命令は個別の範囲と共通の範囲に二分されます。個別部分では、たとえば「箸で食べる」みたいな個別の掟によって仲間の範囲を決めています。これが狭すぎるのがいわゆる右翼的思想です。「まともなのは何々人だけ」とかいう発想です。

 共通部分は、あらゆる宗教の共通項として抽出されたような共通の掟によって決まる仲間の最低限の資格です。この基準が低すぎるのがいわゆる左翼的思想です。「死刑は人を殺すので絶対反対」というような姿勢です。

 私は、死刑について特に賛成も反対もしない立場で、それは社会の選択であると思っています。死刑に対する考え方はいろいろありますが、「人を殺すから死刑反対」という理由は論理的に間違っていると思います。今、ヨーロッパの国のほとんどが死刑に反対していますが、その一方でテロリストがバンバン銃を撃ってきたら射殺していいことになっています。実際にやっていますよね。去年も何人も射殺されました。言葉上ではいろいろと違うように表現するかもしれませんが、それは一種の死刑です。ですから、「人を殺すから死刑反対」なんて成り立たないのです。

 結局のところ、道徳を考えるときに重要なポイントは、「仲間の範囲」と「仲間の資格」であるということになります。AIに善悪の判断を教えるときも、この点に注意する必要があるわけです。

 そう考えてくると、フランス人権宣言の「人は生まれながらにして自由でありかつ平等の権利を持つ」という表現は、「あれ?」となります。私たちはその言葉を金科玉条にして、鵜呑みにしていますが、本当に大丈夫でしょうか?

 自由というのは、個別であり、相対であり、最大限であり、多様性に対応します。一方、平等というのは、共通であり、絶対であり、最低限を決めているもので、一種の道徳性に対応します。つまり、道徳で言う個別と共通の分類と一緒で、自由と平等は対立的なのです。従って、多様性と道徳性が両立できなければ、そもそも自由と平等は両立できない、となります。世の中で自由と平等に関する争いを誰も解決できないのは、そういうわけです。

(2018年10月16日 東京)

この記事は、『サンガジャパンVol.31』(2019年)掲載記事「道徳の本質を抽出する:道徳の誤解を解き、現実社会で展開するために理解する「道徳のメカニズム」」の「PARTⅠ 宗教の掟にみる共通項と個別性」を抜粋・再構成したものです。

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