精神科医として臨床に携わる一方で、テレビのコメンテーターや評論など、さまざまな分野でご活躍されている名越康文氏。相愛大学・高野山大学の客員教授であり、仏教心理学や瞑想法にも精通している。ご自身も瞑想に励む実践者であり、『サンガジャパン』誌上のスマナサーラ長老との連載対談は、『浄心への道順:瞑想と覚りをめぐる初期仏教長老と精神科医の対話』(2016年、サンガ)という深みある1冊にもなった。その名越氏に、お釈迦様が「医王」とも呼ばれた理由について尋ねながら、仏教が現代医療にもたらすインパクトについてお聞きした。
構成=川松佳緒里
お釈迦様の医療は「未来の医療」
──最近は、マインドフルネスをはじめ、仏教の考え方が医療に取り入れられている部分もあるのではないかと思いますが、それ以前に、「お釈迦様はお医者さんであった」とも言われています。なぜお釈迦様は医者でもあるのか? その点を、医療の現場でご活動されている名越先生にうかがいたいです。
名越 マインドフルネスなどは、もっと医療に取り入れられればいいと思うのですが、一般的にはまだそれほどでもないと感じています。「お釈迦様は医者であった」というのは、まったくその通りです。仏典に「私は、医王である」と出てきますしね。
お釈迦様が「私は医王である」と言われたのは2500年前ではありますが、お釈迦様の医療は、今現在から見る「未来の医療」なんですよね。今の医療は、すべて生化学や物理学など、唯物論の世界の中で発展したもの。ある要素を抽出したり、部分的な要素だけで現象を実験的、あるいは科学的にとらえて、その成果を展開したり利用したりして、この100年以上、実際に発達してきたわけです。もちろん、すさまじい成果がありました。ほんの100年ほど前だと50歳ぐらいで人が死んでいたのが、今、僕は57歳(※2017年取材時)ですけど現に生きていますし、90歳まで生きても珍しくない。うちのひいばあさんが91か92歳まで生きて、たいした長寿だと言われたものですが、今じゃ90歳ぐらいは普通の長生き。完全なエビデンスが出ているかどうかは別にして、これはまさしく公衆衛生と医療の多大なる成果だと思います。
しかし、まだ医学・医療は完璧ではありません。医療者もそれに気づいていて、そこで未来の医療において必要となる知見が、お釈迦様が提唱していた医療だと思います。しかし、医療の世界では、まさにこの医王ブッダの医療が暗黙のタブーになっているわけです。
──暗黙のタブーとは?
名越 つまり、「心が元になって、病気になったり、病気が悪化したりする」ということです。医者がこの点をさらに追求すると、「病気を起こしている根本的な原因は、心にある」と言いたくなるはずだと思うのですが、今の医療では、それは暗黙のタブーとされ、踏み込めないでいるのです。
それには理由もあるでしょう。治療の場において、いきなり単純に「心の問題である」と言うのは危険です。身体的な病気を物理的・科学的に解析する前に、「気持ちの問題だ」とか「精神を統一したら治る」というところに安直に置き換えると、適切な治療の機会を逃してしまうのは明白ですし、患者としての人の心を傷つけてしまうこともあり得るから。まず、物理的・科学的な身体としてとらえて、精査して、治療しないといけません。
しかし、お釈迦様は、心の問題を唯物論的な考え方と対立させて論じたわけでは決してないのです。お釈迦様が「心」と言う場合の心とは何か、我々は、ほとんど理解していません。お釈迦様が言う心とは、時間・空間を超えた世界のことですから。僕たちが言う心とは、せいぜい「なんか胸の奥にあるような心」とか、「私の心の痛みなんて、あなたにはわからないわ」、あるいは「親の心子知らず」というレベル。つまり、罣礙されたというか、区分された未熟な心のことを、我々は心と呼んでいるわけです。
僕たちはみんな未熟なので、隔離され閉ざされた小さな心の中身を「心」と言っている。でも仏典によると、お釈迦様は実際に、「生命は永遠に輪廻転生している。それが苦である」と説かれています。我々は、この一回の生だけではなくて、繰り返し繰り返し、苦しみの中で生きていることまでも見られたと仏典に書かれています。ですから、時間や空間を超えた心の世界を見たわけですよね。そこから見て、「あらゆる病は心が作り出している」という言葉が出てきたのだと思います。
心について無知な私たちは、心と体を分けて見てしまうのですが、お釈迦様の境地から見ると、心と体はまったく分かたれていない。それだけでなく、存在と心とは分かたれていないと考えるべきですよね。でも我々は、修行しても安易にお釈迦様にはなれないのですから、とにかくお釈迦様の言葉の本意をできるだけくみ取ろうと努力をするべきです。その努力こそが、物理的・科学的に発展を遂げつつある医療が、一方では非常にアンバランスになっていっていることを謙虚に見て、その心の部分を補完していくことになるのです。そうやってバランスを取っていくことが、これからの医療になるのだと思います。
しかしながら、心についての現代人の無知そのものと、それ故に安易な形で「心の問題」としてしまうことの弊害や危険性があるから、なかなか踏み込めないでいるというのが、医療の現状ではないかと思います。
──お釈迦様がとらえていた心というのは、時間と空間を超越していた。それは逆に言うと、西洋医療から見た心は、時間と空間を超えていないわけですよね。
名越 でも、西洋医療でも「ここが悪いから、ここを治しましょう」という部分的な医療に終始するのではなく、個別に見れば漢方医療や東洋医学などを真剣に勉強し始めているお医者さんは一定数出てきています。ただ、決して増えているとは言いません。ここがポイントで、全然増えているわけではないと思います。
僕自身も医者なので批判的に言ってしまいがちなのですが、漢方医療や東洋医療をアピールしているお医者様のほとんどは、西洋医学の補完として、西洋医学的な身体観や医療観の基盤の上に立って、漢方医療を行っている。あるいは、ある場面で鍼灸を取り入れたりする程度なんです。
漢方医療には脈診や触診をはじめ、さまざまな診断法があります。季節を細かく分けて、その時その時で食べるものを変えたり、養生の仕方を変化させたりもします。本来は、東洋医学的な身体観にのっとった上での、さまざまな鍼灸であったり漢方薬であったりするのですが、そういった身体観・世界観を含めた漢方医学を学び実践している医者はごく少数で、その数は決して増えているとは言えないと思います。
でも、「風邪をひいたら葛根湯だ」というような、付け焼き刃的な領域から少し出て、東洋的な病の見方、あるいは健康観というものを学ぶ人が増えていったら、病気というものが局所論ではなく、全体論に近づくと思います。
病を人生全体からとらえ返してみたり、あるいは、身体全体の1つの偏りが局所的な病気として出たのではないかという可能性を真摯に研究するような態度が重要です。それが、ブッダが「私こそ医王である」と完璧に自信を持って言った謎、我々が解けない高みというものに近づいていく、具体的で力強い方法論の1つではないかと思っています。
──なるほど。では、お釈迦様の医療は、現在の西洋医学の補完的役割となっている東洋医学とは、まったく違う次元だということですか。
名越 そうだと思います。お釈迦様が「私は医王である」という謎を解く方向から、医療の発展や成熟、あるいは我々を幸せに導くためのリーダーシップの一翼としての医療ということを考えるのであればね。漢方の部分的な使用にばかり傾いているのでは、その謎は当然、永遠に解けないでしょう。
──そう考えれば、マインドフルネスの問題点もすぐわかります。「調子が悪いことの対処法としてマインドフルネスを利用する」といった考え方では、本質的な部分は解決していきませんよね。
名越 まったくその通りだと思います。ですから、東洋医学的なものやマインドフルネスを唯我独尊で取り入れるのではなく、問題点にまで気づいて、気づきながらもより深い本質を、少しずつ周りに知ってもらおうと思いながらやるかどうかは大きな違いだと思います。取り入れながら、自分自身も「もう少し成長していこう」「もっと深いことを知ろう」「もっと汎用性のあることを知ろう」と興味を持って探求し、人生を歩んでゆく構えが大切だと、自省も含めて思います。
ただ、仏教には方便というものがあります。その人が今、実際に大変な苦しみを持っていたら、その苦しみのところまで近づいていって、その人が今、一番必要なノウハウ・言葉・薬を差し上げる、あるいは指導や施術をしてさしあげる。それによって、その人が、真の仏教的な考え方に基づく医療などに感動すれば、「とりあえず治ったらいい」とか「痛みさえ治まればいい」という部分的な考え方から、人間全体をとらえる医療や、全体をとらえるダイナミックな健康観に目覚める可能性があります。少なくとも目覚める確率が高まるわけですから、そういう現場での苦しみを緩和する医療は、仏教から見てもひじょうに大切であると言えるでしょう。
ですが、この100年間ぐらい、医療は苦しみを緩和するほうにばかりとどまっているのも事実なので、平和なうちに、もっと全体的なほうへ移行していかなければいけない気がします。カタストロフィーみたいな状況になると、それこそ悪い意味での拝み屋さん的な、暴利をむさぼるような形の宗教ビジネスみたいなものが急激に流行る可能性もありますから。その前に、姑息的な医療から全体的な医療へ。実は、生き方そのものに基づいた健康観が本当の医療なんだということを学ぶ人が増えるべきだと思います。
──仏教には、人間の心と体の全体をとらえる健康観があると思うのですが、実際、お釈迦様は病の原因や治療法をどのように考えていたのでしょうか。
名越 もちろん僕が明確にわかるわけではありませんが、お釈迦様は、生理学的な意味で体に病があったとしても、その苦しみを倍増させているものとして「執着」があると考えていたとは言えるでしょう。執着こそが、体の苦しみをさらに強烈にしていたり、一日の生活、さらには人生のクオリティーに大きな影を落としていたりします。
また、「今は執着のない状態だ」と僕が思ったとしても、お釈迦様の目から見たら、僕の無意識の中にはたくさんの執着があるはずです。その奥深いところの執着が、たとえば僕はちょうどこの数日、歯がけっこう痛いのですが、その痛さの元になっていると言えるかもしれませんね。僕たちは自分の執着について、表面的な部分しか認識できていないだけで、お釈迦様からすると、もしかしたら、あらゆる病は、ある種の執着から生じているとおっしゃるかもしれません。しかも、それが今世だけではなくて、時間・空間を超えた、ある因果律をもって見えているというふうな類推は、邪見かもしれませんが、もしかしたらできるかなと思いますね。
スマナサーラ長老も、「体への執着をできるだけ捨てていくと、痛みも和らぐし、病気も早く治っていきますよ」ということをおっしゃっています。それは本当にそうだなと思います。そういう治療法はものすごく有効で、とても実践的です。僕たち一般人のレベルでも、病気における瞬間瞬間、何に自分が執着しているのかを観られるようになっていくと、快く過ごせるし、病気の治癒も早いということは経験則からわかります。仏教から言うと「執着」だし、より心理学的な言語で言うと「感情」。怒りや不満の感情が、病気の炎を大きくし、治りを遅くしてしまうことはあり得ると思います。
(第2回に続く)
(2017年9月20日 東京/隣町珈琲にて)