パーリ経典に描かれる比丘の自殺と対話の意義:「生き様」の物語(川本佳苗)

『テーラワーダ仏教ハンドブック2 ブッダの教え 上級レベル』刊行記念の連続オンライン・セミナー第1回「仏教におけるジェンダー問題~女性は悟れないって誰がゆわはったん?」(2020年12月5日開催)を前に、講師の川本佳苗先生によるパーリ経典に関する論考を紹介します。

表紙写真:ミャンマーの古都マンダレーにある大僧院「マハーガンダーヨン」の朝の風景。列を組み境内を歩む少年僧たち。

はじめに

 近年、欧米を中心に安楽死や尊厳死などの「死ぬ権利」が普及しつつある中で、行為者の倫理性と深く関連する死の決断は「自死」(voluntary death)として、現代に頻発するような人生の悲観や逃避を原因とする自殺とは区別されるようになっている。仏教倫理において自殺の是非を問う際、ゴーディカ、ヴァッカリ、チャンナといった三比丘の経は、まず重要文献とされている【*1】。なぜなら、これらの経では主人公である比丘が自ら刃物を取って死に至り、解脱に到達するからである。自殺と阿羅漢果という衝撃的かつ矛盾した組み合わせのために、三経は仏教倫理研究において常に議論されてきた。

 仏教道徳では、故意の殺生は一貫して慎むべき悪業である。不殺生戒は、仏教徒が守るべき道徳である五戒の第一番目である【*2】。また、出家者が守る律蔵では、殺人はパーラージカ(波羅夷)罪の第三番目に当たる【*3】。四種のパーラージカのいずれでも犯せば、サンガからの追放、つまり僧籍の剥奪という最重罪が科せられる。第三パーラージカ制定の最初の因縁譚として、比丘の大量殺戮事件がある。この事件の中に比丘の自殺や他の比丘に自身の殺害を依頼するといったほう助自殺も含まれるために、アビダンマなど経蔵以外の文献から現代の仏教学に至るまで、自殺は絶対的な悪行であるという見解が一般的である。

 パーリ三蔵注釈書の著者ブッダゴーサは、三比丘の物語と殺生に批判的な道徳観との間の教義的矛盾に対して、調停を図る必要があったのだろう。三比丘は刃物で首を切りつけるまでは、実は阿羅漢ではなかった(悟りを得ていなかった)と強調した。その後も、彼の解釈に基づいて現代の仏教研究の多くが、一体どの瞬間で比丘達が阿羅漢になったのかという「タイミング」の解明を試み始めた。こうして、現代の仏教倫理は仏教における自殺の問題を解決するために、三経の中の自殺という行為あるいは「亡くなり方」にもっぱら注目し、それ以外の読み方や解釈は言及されてこなかった。

 しかし、パーリ経典に描かれるこれらの物語がもつ真の主題は、決して自殺でない。それは、対話によって導かれる死の受容と決断、たゆまぬ精進、そして解脱、といった生の「過程」である。本論の目的は、仏教における自殺の是非、善悪、正誤や、帰結主義的な見解を示すことではない。物語の主題の再考によって、二元論的な倫理的判断を超えた「何か」を、本質的に宗教(または芸術)の領域において多義的に理解されるべき「何か」を見つめることである。そのために、三経をより包括的に演劇的要素や登場人物達の対話(ブッダと悪魔、ブッダとヴァッカリ、サーリプッタとチャンナなど)から分析し、物語全体が何を描こうとしているのかを考察する。物語の過程からは、三比丘の一人一人が、我々と変わらぬ人間としてどのように生き、病苦を嘆いて死を望み、解脱を目指して煩悩と戦ったかという、生の受容と観察が浮かび上がってくる。さらに、この「過程」の中で主人公や狂言回しとも呼べる重要人物達による、物語を進行させる対話の意義も明らかになるものと考える。

1 三経の共通点

 ゴーディカ、ヴァッカリ、チャンナの経のそれぞれを分析する前に、三経の共通点を例示してみる。第一は、(他の経もそうであるが)物語が登場人物の対話や心中の独白といった「台詞」によって進行する点である。そのような進行形式は、物語の演劇的要素を高める。だが、経においては対話と実際の行動との間の場面転換が急であったり不明瞭であったりすることが混乱を呼び、後の注釈書は補足せざるを得なかったのだろう。だが、三経自体には、登場人物達が「何をしたか」よりも「何を語ったか」がより多く記述されているため、本論でもまた、登場人物達が語る台詞に映し出された感情や、対話がもつ役割に焦点を当てる。

 第二の共通点は、三経のあら筋である。いずれの物語でも、主人公の比丘は問題を抱えて自殺したいと考えるが、一人(チャンナの場合は二人)の重要人物がそれを止めようとする、あるいはその比丘に仏法理解や自殺意図について試すような問答をする。それでも比丘は死んでしまい、最後は彼の解脱を明示するブッダの宣言によって幕を閉じる。しかし同時に、三経のいずれもどのように比丘が死に、死ぬその瞬間に何が起きたのか明確に述べていない。

 第三は、三経の注釈書で、ブッダゴーサが一般的な殺生否定の仏教観との合理化を図るために、補足的解釈を試みている点である。例えば彼は、①三比丘が自殺を決意した時点ではまだ阿羅漢ではないのに、慢心ゆえに自らが阿羅漢であると妄信していた、と強調している。また、②あえて三人の自殺の瞬間を鮮明に描写し、各々が首に刃物を当てた瞬間、痛みや恐怖といった阿羅漢なら決して持たない否定的な感覚が生じたと記述している。そしてこれこそ三比丘がまだ煩悩があった根拠だとしつつ、その時に比丘が直ちにそれらの感覚に注意を向けたことで涅槃に至ったのだ、と結論づけている【*4】。このように、阿羅漢果に対する慢心、誤解の自覚そして解脱という一連の過程は、三経ともに共通している。

 以上の点を踏まえた上で、考察方法として、まずパーリ経典本文のあら筋を述べてから、注釈書や現代の仏教研究において見られる論点を分析する。その後、倫理的関心を一切混ぜずに各物語に見出される主題を明示する。それは、三比丘の各々が実際にいかにして生き切ったかという過程である。

(以下、本誌をお読みください)

 

【注】
*1 『ゴーディカ経』(S.i.120-122)、『ヴァッカリ経』(S.ii.119-124)、そしてチャンナについては『チャンナ経』(S.iv.55-60)と『チャンナ教誡経』(M.iii.263-266)がある.
*2 D.iii.235.
*3 Vin.iii.71.
*4 SA.i.182-5(ゴーディカ)、SA.ii.313-5(ヴァッカリ)、SA.ii.371-3(チャンナ)。

【略号】
S: Saṃyuttanikāya
M: Majjhimanikāya
D: Dīghanikāya
Vin: Vinayapiṭaka
SA : Saṃyuttanikāya-aṭṭhakathā

この記事は、別冊サンガジャパン4号の一部を抜粋・再構成したものです。

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