心とはなんでしょうか:ブッダが教える心の仕組み(アルボムッレ・スマナサーラ)

 「心」とはなんでしょうか?
 命あるものは皆、心に導かれています。私たちの行動のすべては、心が主導権を握っているのです。

 ブッダの教え(仏教)とは、私たちが「心」の正体を知って、心を正しく用いて、究極の幸福に達するための教えなのです。
 書籍『ブッダが教える心の仕組み』では、「心所しんじょ」という心の中身・心の成分に関する分析をご紹介します。
 心はいつでも働いているものですが、その働きは心を構成する成分が代わることで目まぐるしく変化します。その時その時の心にどんな心所が混ざるかによって、心は悪に染まったり、善のエネルギーを起こしたり、智慧の開発に向けて動き出したりするのです。
 心の中身について学ぶことで、私たちは「すべての悪をやめること。善を完成すること。自分の心を清らかにすること」というブッダのガイドラインに従って幸福への道を歩むことができます。
 ここでは52ある心所のうち、「意欲」「痴」「喜」の3つを紹介します。

雑心所ぞうしんじょ:「意欲いよく」チャンダ chanda

[ 行動を起こす働き ]やる気のエネルギー

行動するために大切なエネルギー

 《意欲》は、「よし、やろう」というやる気です。

 何か行動する場合、「それをしたい」という《意欲》が必要です。この心所が弱くなると、行動できなくなります。ただ、善いことばかりに働くわけではなく、悪いことに対しても働きます。

 仏教の修行の目的は、悪いことをするための《意欲》はなくし、「人格を向上させたい」という《意欲》を持って、育てつづけることです。

 「やりたい」という気持ちはあるのに、なかなか実行に移せないことがあります。その場合、「よし、やろう」という《意欲》が足りないのです。

 《意欲》は、行動を起こさせる《》や、「こうしよう」と決めて努力をする《精進しょうじん》にも似ています。

 《志》は、どんなときにも働いている「共一切心心所きょういっさいしんしんじょ」です。「絶対にこうしたい」と《志》に執着するとごうになってしまうため、注意が必要です。

 《志》と《意欲》は明確に区別することができます。《志》は、常に働いているのです。強く働くときは誰でも気づくことができます。俗に言う「やる気」だと理解しておきましょう。《意欲》は、俗に言うと「好み」なのです。好みなので、性格の傾向だと理解することができます。私たちの心は、好みの方向に傾いて働くのです。そのとき、《志》は好みに従って起こるのです。性格によって悪行為を好む人も、善行為を好む人もいます。しかし、人は理解能力を使って自分の好み(意欲)を変えることもできるのです。

 また、「こうしよう」と決めて努力する《精進》と、「よし、やろう」という《意欲》は、行動するためのエネルギーであり、どちらも大切です。

《意欲》を育てれば、やりたいことがどんどんできる

 すぐに実行できる人は、「よし、やろう」という《意欲》のエネルギーが強い人です。「あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ」とあせって考えているときは、《意欲》が弱いのです。あるいは、いくつもの《意欲》が競合している場合もあります。それがストレスの原因になります。

 やりたいことが曖昧で、優柔不断に悩んでいると、心のエネルギーは低下します。やろうとすることが善いことであるならば、すぐ実行に移せば人生はストレスなく進めます。

愚かさの心所:「」モーハ moha

[ 無知の状態 ] 真理を知らないこと

心の基本は「無知」

 《痴》とは、「無知」のことです。仏教用語で「無明むみょう」といいます。

 仏教でいう「無知」とは、物事の本来の姿、ありのままの事実を知らないことです。私たちは、自分が知る世界しか存在せず、それこそが正しいと思いこんで生きています。これが、すべての「苦」をもたらす原因です。

 たとえばフクロウは、正面を向いていても、後ろにいるネズミを認識しています。どこにいるのか、食べられるくらいの大きさか、つかまえられそうか、音によって三次元のレベルでわかるのです。

 各生命の認識は、それぞれが持つ身体の感覚器官によって制限され、ちがいます。そして、その認識をどう解釈し、どう行動するか、それぞれ決まっている。どんな生命も自分が知る世界がすべてだと思っているのです。

 この事実は、科学をもっても変えられません。たとえば、赤外線や紫外線は存在しているのに、私たち人間の眼には見えません。赤外線カメラなどで写真を撮れば、ふだん見えないものが見えるようになるだろうと思っているのです。しかし、赤外線カメラが撮った写真は、赤外線を人間の可視範囲に変換した画像にすぎません。認識を引き起こすためには、私たちのげんぜっしんしきしょうこうそくが触れなくてはいけない。各生命に認識できる帯域は生得的に決まっているから、コウモリが出す超音波を聞きたければ、その音波の波長を可聴範囲に置き換えなくてはいけないのです。

 他の生命は、自分の身体に触れる情報がすべてだと思って、なんでも知っている気分で生きています。しかし、人間は人間の認識範囲を超えた光・音などの存在があることを知って、それも認識しようとして苦労しているのです。それでも結局、人間にも「自分の眼耳鼻舌身に触れる情報がすべてだ」という考えが抜き難くあって、「私がすべてを知っているのだ」という《痴》に、いとも簡単に陥るのです。

すべては「無常」「苦」「無我」である

 無知のままに物事を見るとどうなるでしょうか? 一切の現象は、瞬間瞬間、生滅変化し、流れつづけています。変化こそが真理なのに、「確固たる変わらない何かがあるはずだ」と思うのは「無知」そのものです。変化しつづける現象に、錯覚に基づく希望・期待をいだいても、それは必ず失望・失敗に終わります。人生は苦しみに沈むのです。

 ありのままの事実を知らない《痴》とは、「無常」「苦」「無我」である現実を「常」「楽」「我」であるとアベコベに錯覚している状態のことなのです。

無量心所:「」ムディター muditā

[ 他人の善いところを見つける働き ] 喜びの気持ちを広げ育てる

他人の善いところを見つけると、自分が楽しい

 《喜》muditāは、他人の幸福を喜ぶエネルギーです。

 「あの人にいい仕事が見つかってよかった」「あの人に子どもが授かってよかった」「あの人の商売が順調でよかった」── 他人の幸福を見て、「ああ、よかった!」と自分も楽しくなるのです。

 雑心所ぞうしんじょにも《喜》がありますが、それとは明確にちがいます。漢字が同じなので混同されがちですが、ピーティは、自然に心に起こる喜びのことです。ムディターは、他の生命の幸福を認識するときに起こる喜びです。心が汚れた人であるならば、他人が成功すると怒ったり嫉妬したりします。他の生命の成功を見て、自分のことのように感じられるように努力すると、ムディターという喜びが生じます。

 ムディターは、「陰口やきつい言葉、嫉妬を言う心」とは正反対です。陰口を言う人は、他人の悪いところを探しています。他人の幸福を喜ぶ人は、他人の善いところしか見ません。他の美徳を発見して、自分も楽しむのです。

 世の中で「ゴミを探す人」になるか「宝物を探す人」になるか。

 ゴミばかり探す人は、毎日ゴミしか見えません。しかし、ゴミを見て楽しいわけはありません。宝物を探す人には、毎日宝物が見つかります。だから、楽しい経験だけが得られるのです。

無量心所は限りなく育てられる

 ムディターは、まず自分の幸福、自分の親しい生命の幸福を喜んで自然な気持ちを感じてみて、その気持ちをどんどん広げていくのです。小さな喜びの心を限りなく大きく育てることができます。

 生きることは終わりのない戦いです。苦しくなるし、疲れてしまうのです。無量心所を育てることで、この悪循環を転換できるのです。

本稿はアルボムッレ・スマナサーラ『ブッダが教える心の仕組み : 52の「心所」で読み解く仏教心理学入門』(誠文堂新光社)の一部を再編集したものです。

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